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hydeの色覚特性 ---hydeの見ている世界

hydeは自ら自分が色弱であることを打ち明けています。美術系の専門学校出身の彼は、将来は絵の道に進みたかったんだと。でも自分の色の認識が、その他大勢の人間とは異なっていると分かった彼は、絵の道を諦めてしまいます。

皮肉なことにそれは私たちファンにとって、またもしかするとhyde自身にとっても喜ぶべきことであったかもしれません。というのもその色弱というハンデがなかったなら、hydeが音楽を選ぶことは無かったかもしれないのですから。


形の近視、色の色弱

人の得うる外部情報の80%が目から入ってきます。ものの形や色、動きをはじめ、遠近感やバランス感覚、位置感覚も大切な視覚情報です。目から情報を得る能力は、人にって若干の差が生じます。代表的なものが「視力」です。近視遠視は、遠くのものや近くのものの「」が「見分けづらくなった状態」を言います。

(ちなみに私は結構な「近視」です。視力検査でおなじみCの並んだ検査板で、最上段のCがぜーんぶOに見えます。どこに穴が開いているかなんて分かっちゃいません。メガネかコンタクトなしの世界はプールの中で目を開けたときのようにぼやけて見えます。)

これに対し、形ではなくある種の「」を「見分けづらくなった状態」を「色弱」と呼んでいます。

近視者が「見えない」と言ったとして、物が全く見えない!という訳ではありません。同様に、色弱の方が「この色は分かりづらい」と言ったとしても、それは色弱の方の見ている世界に色が無いわけではないのです。


眼の中で起こっていること

色弱の頻度は少なくありません。日本人男性の5%は色弱だとも言われます。周囲に20人男性がいれば一人くらいは当てはまるということです。日常では気付かない程度の軽い色弱の方もいれば、普段の生活で不便を感じるほどに重い色弱の方もおり、その程度は様々です。遺伝でなる場合もあるし、後天的に眼の病気を患った場合も色弱になる可能性があります。遺伝で色弱になる場合、その症状は男性にしか現われません。

目には「光を感じる細胞」と「色を感じる細胞」が存在します。光を感じる細胞でモノクロの世界を網膜に作り上げ、色を感じる細胞で色を重ねていきます。

ところで無数の色が世界に存在する中、私達は「色を感じる細胞」を3種類しか持っていません。赤い光にだけ反応する細胞、緑の光にだけ反応する細胞、青い光にだけ反応する細胞の3種類。赤・緑・青という3原色を混ぜることで、色んな色を網膜に作り出しているのです。

ところが、赤の細胞が赤い光にあまり反応しなくなったとします。赤い色の配分が少なくなってしまい、目で感じた色は実際よりも赤みを失った緑よりの色になります。(赤と緑の光は波長が近いので、区別するには精緻な感度が必要なのです。)緑の細胞が鈍くなってもやはり、目は赤と緑を違う色だと認識することが難しくなるので、赤や緑は鮮やかさを減弱します。これが色弱の方に多い、「赤緑色弱」です。

赤や緑は光としての特性上、近い波長を持つ似た色として認識されますが、3原色のうち「青い光」はこの2色から離れたところに波長のピークを持っています。つまり、たとえ赤緑色弱があって、赤や緑の波長を区別することが難しい方でも、光の特性上全く異なる「青い光」は、高い感度で、色弱の無い方同様に認識することが出来るのです。(青の細胞が鈍る青黄色弱も存在しますが非常に稀です。)

そういう意味では、赤緑色弱の方にとって、という色彩は、最も鮮やかに眼に映る光です(最も鮮やかに"感じている"かは別問題)。赤や緑の彩度が落ちている分、世界の「青い」美しさはより際立ち、「青」に対してはその他の人間よりずっと敏感なのではないかと、私は(勝手に)想像します。

色弱の方は、彼らだけに分かる「世界の美しさ」を知っているのです。


色弱という「色覚特性」

実際にこのような色覚特性(色の知覚にある種のクセがあること)を持つ方はどのように世界を見ているのでしょう、またどのようなことで不便が生じるのでしょう。

◆ 見え方シュミレーション

色盲」の方の見え方をシュミレーションした加工画像です。真ん中が「赤の細胞が働かない場合」右側が「緑の細胞が働かない場合」の色盲の方の見え方です。「色弱」はこの軽いバージョンだと思ってください。

紅葉と鳥居

焼肉(焼け具合が分かりにくい)

赤い花

UNO(色分けしたカードゲームもわかりにくい)

◆ 石原式色覚検査

かつては学校でこのような絵を使って色覚特性を測りました。
色弱や色盲の方にとって区別の難しい色ばかりを使って描かれた絵です。色弱を持つ方には右の絵のように見え、描かれた数字を判別することが難しくなります。

◆ 識別の難しい色の組み合わせ
  • 「赤と緑」 -
  • 「オレンジと黄緑」 -
  • 「緑と茶」 -
  • 「青と紫」 -
  • 「ピンクと白・灰色」 -/
  • 「緑と灰色・黒」 --/

◆ 生活に生じる不便
  • 緑の木々の中の紅葉がわからない
  • 熟れたトマトとまだ緑のトマトを区別できない
  • 光の加減によって交通信号が読み取りにくくなる
  • 桜の花はピンクではなく白だと思っていた
  • カレンダーの祝日が見分けられない
  • 靴下を左右色違いで履いてしまう
  • 描いた絵の色使いがおかしいと言われた
  • ラベルを見ないと絵の具が区別できない
◆ それは「間違い」か?

色弱の方の中には、木や山に赤い絵の具を塗ったり、柴犬が緑に見える方もいらっしゃるようです。特に学童期に絵を描き、色使いの不自然さを指摘され、それを心の傷として持っていらっしゃる方は多いようです。赤と緑が同じような色に見えるから、「見たまま」に描こうと赤と緑を混ぜて描いたのに、他人からは「違う」と言われる…。例えば黄緑に見える草を塗ろうと私が緑色の絵の具に黄色を混ぜて草を描いたとします。絵の具を混ぜた色は、確かに自分の見ている草の色になりました。なのに「これは違うよ、ちゃんとよく見て描いてね」と先生に言われたとすれば、大変なショックだと思います。「私」にはこう見える、この色を混ぜた色に見えるのに。どうして「私の色」を分かってくれないの?

色弱の方には、その方の「色」がちゃんと見えています。その色は間違いではないし、汚いものでもありません。これが赤でこれが緑…という認識だって当たり前ですがあるんです。ただその色彩がその他大勢が感じている色彩とズレていることがあるため、互いに色を共有しないといけない場面において苦労することがあるのです。


"星を見せてあげる、君の知らない光が、たくさんあるんだ"

これまで挙げたように、色弱の方が日常的に苦労する場面はところどころで存在します。ですが色弱の頻度を考えた場合、自分が色弱だと気付いていない方だって、おそらく沢山いらっしゃるでしょう。色弱による不便をそこまで意識せずに生活できる方は多いということです。

hydeの場合はどうでしょう?一人で独立して作品を製作する画家ならともかく、デザインやアニメーション製作の分野で絵に関わり、複数人とイマジネーションを共有しないといけないとすれば、この色覚特性はかなりのハンデになるだろうと思います。音楽で言えば、半音のキーの違いが聞き分けられないようなものです。

世の中の多くの人が見ている世界と自分の見ている世界は違う―
自分が感じ描いた世界の色彩を、等しく人に伝えることが出来ない―

ひどく不謹慎なことですが、hydeの生きる世界が私たちとはちょっと違うということが、私にはむしろhydeらしく、嬉しくも感じられます。彼は私達とは違う眼で違う色を見、違う光を感じ、そこから何か世界の秘密を見つけてくる。

星を見せてあげる、君の知らない光が、たくさんあるんだ 〜SWEET VANILLA〜 HYDE

hydeが「光」の認識において特殊であり、それを描き出す段階においてもやはり特殊であることは、彼の「眼」を通した「世界」というものが特殊であり、彼自身の生む「」もまた特殊であるということを強調しているように感じます。


色彩への招待

雑誌のインタビューでhydeがこんな意味のことを言っていました「音楽で僕が『緑』と歌えば、聴いている人は『それぞれの緑』を自分の中に『描き出す』ことが出来るから」。

彼は「見せる」のでなく、色彩の中へ私たちを「案内する」というやり方で、絵筆を折ってしまった今も変わらず色を重ねます。

hydeの「見ている色」を私達は決して見ることは出来ません。でも私達は知っているはずです、彼の「感じている色」ならば、彼と「共有」することだって、可能なんだと。

彼の音楽に存在する溢れんばかりの色彩を、ファンが確かに見とめてきたのなら。


2005/09/10
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