L'Arc-en-Ciel(ラルク・アン・シエル)アンオフィシャルファンサイト

私あおりは、この「LOVE FLIES」という曲をL'Arc全楽曲中最も愛しています。
ここでは私の独りよがりなLOVEFLIES論を語らせて頂きます。
ただし、あくまで私の中での解釈です。
著作権者の意図とも楽曲の本質とも大きく外れている可能性が十二分にあるということを、
どうかご承知ください。

「愛は飛ぶ」? ---独りよがりに愛を叫ぶ


「愛は飛ぶ」でいいのかLOVE FLIES

「LOVE FLIES」

愛が飛ぶ、直訳すると確かにそうです。けれど私は違います。「LOVE FLIES」、 愛は永遠だ、と言いたい。

聖書を私なりに解釈し、この「LOVE FLIES」という奇怪な表現の深意について考えてみるとこうです。

地(earth)は宇宙の中にあり、宇宙は天の中に浮かんでいます。裁きの日、「神」の「愛(love)」に満たされた者たちは、現世における肉体、「生(life)」から飛び立ち、宇宙を越えて、「天(heaevn)」へと迎えられます。「天」へ入ることを許された者には、「永遠の命(eternal life)」と幸福が約束されるのです。

「souls fly」で魂は永遠、と訳すことがあります。「sky」を「skies」と複数形表記すると「天」を表します。もしも、空へと羽ばたき天へ入ることが、存在を「永遠化」する唯一の方法なのだと考えたなら・・・

さあ、hydeと一緒に神がかって、もう一度聴いてみてください、綺麗さっぱり雑念を取り払った眼でもう一度見てみてください、この曲の目指した光る空を。

Look at the skies―and then I feel…I feel Love flies

『目を凝らして天を見て…ああ、僕は感じている、感じているよ。 この「愛」が高く飛翔し宇宙も越えて、「天」へと導かれ、「神」の国で「永遠」となるのを。』

聖書の愛〜愛は存在を証しする

「愛」と日本語で書くと、どうしても「誰かを愛する気持ちの本態」だと思われがちです。けれど、聖書にある愛の概念と照らすと、どうしても日本語の「愛」の意味では視野が狭くなってしまいます。

「愛する者達、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので・・・」
「神は愛です。愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」
「愛が私たちの内に全うされるので、裁きの日に確信を持つことが出来ます」
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することが出来ません」
「愛とは御父の掟にしたがって歩むことであり、この掟とは、・・・、愛に歩むことです」
(新約聖書から)

神が人間に命じていることは一つ、ただただ「愛し合いなさい」ということです。そもそも愛とは「神から人の中に注がれるもの」であって、器が「愛」でいっぱいになって初めて、裁きの日に「天」へと入って行けるんだと言っているのです。しかもその愛とは「神の一部」であって、神を身の内に迎えることで永遠の命が得られるのだから、つまり神とは「命」そのもの。神と愛は等しく「命」なんです。この「命」というのも、現世で限りあるものだけを指すのじゃなくて、第2の死を免れた人々が天上で手にする永遠の存在のことをも指している。

「愛」とは、私達が「時間」の流れの中で手に入れた「一時」の、もしくは「永遠」の「存在」を、唯一証ししてくれるものなのだと、そう解釈できないでしょうか。しかもどうやったら「愛」(=命)を手に入れられるかって、結局「信じる」ことなんだと、言っています。

「愛すること(=神、命)は信じること」で「信じることが全ての存在を可能にする」

思い出してください、InnerCoreを。

「君が目に見えない愛を信じるように意識は存在する永遠に」

愛も意識も手には触れないのに、どうして在ると言えるのでしょうか。 信じてるからこそです。疑えば存在は危うい、そして愛の無いものを信じることは出来ない

貴方の世界は、貴方が外界に対して抱いている「愛」を形象化したものです。換言すれば、「愛」が貴方の世界を象っている。人々の抱く愛の形が違うなら、同じ時間軸に沢山の世界が乗ってることになる。人の数だけ。

「L'Arcはただのポピュラーソングをさも珍しそうに提供する集団だ」

何が真実?

「hydeなんてただの垂れ目猫口おちびボーカルだ」

何を信じる?

「L'Arcは意思を音に託して届けてくれるプロフェッショナル集団だ」

全部貴方次第。

「hydeはそう誰にも許されない器用さで喜怒哀楽を歌い分ける歌い手だ」

信じるのならそれが真実。

個人個人の在り方を尊重しつつも、世界を客観的に共有するためには、信じること、つまり互いを愛することが必要なのです。

少なくとも、私がL'Arcを愛してる、と言う場合の「愛」においては、「信じられないくらいその存在価値を信じている」という、その動機となる感情を、「愛」だと宣言しているのです。

hydeの愛〜言葉の感情

hydeが果たしてここまで考えているかどうかは疑問です。結局「愛は飛ぶ」のつもりでタイトルを付けただけかも知れません。けれど、hydeにはその言葉以上の風景が見えている、ということが問題なんです。

私が主張したかったのは、彼がさらり言ってのけるその言葉の「感情」に少しでも近付くためには、こちらが多少自分の器を変形させる必要があった、ということです。こう考えれば分かりやすいんじゃないかって。

少なくとも、hydeは作詞の段階で色々な風景を頭に描いたはずで、それら抽象的な風景を表現するのに「愛がはばたく」との言葉を選んだだけです。彼の頭に浮かんだイメージに、私たちの考える意味以上の要素(「飛ぶ」は「永遠だ」とか)が含まれていても、当然かなって思います。彼自身が、それに気付いていなくても。

こちらに伝わってくるってことは、伝える何かが言葉に宿っていたんだと思います。「言葉は生きてる」のだから。


2005/09/09
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