L'Arc-en-Ciel(ラルク・アン・シエル)アンオフィシャルファンサイト

flower ---「True」収録


代表曲

言わずと知れたL'Arcの代表作。ファンからの支持も厚い名曲です。L'Arcを聴く上で「flower」を欠くことは出来ません。L'Arcの好き嫌いを決めるならこの曲を聴いてからにしなさいってくらい。


夢の中

「夢の中にいるような雰囲気を出したかった」

こうhydeも語った通り、出だしから夢の輪郭をなぞるような、ふわふわとした旋律が流れてきます。午後の光の中で、意識と眠りの境界を彷徨いながら見る、断片的な夢をつないだような、危うい旋律。「僕」は午後の光の中にあっても『』というを必死に繋ぎ止めようとします。せめてもの祈りは夢の中の「君」へ・・・。

まるで自分も苦しい恋の只中にいるような錯覚。この曲を聴きながら、現実を行き来しつつ恋に悩む「僕」の気持ちを感じて下さい。


words〜hydeを聴く〜

「いつでも君の笑顔に揺れて太陽のように強く咲いていたい」

「花」は太陽の光がなければ生きていくことが出来ません。陽光の全く当たらない場所に綺麗な花が咲くでしょうか。花が花として咲くために「太陽」は必要不可欠です。それと同様、「僕」にとっての太陽、必要不可欠なものとはまさに「君の笑顔」であると歌われます。君の笑顔に照らされて、「僕」もその笑顔に負けないくらいの力強さで「咲いていたい」、このフレーズには「僕」の切なる願いが込められています。

「鮮やかな風に誘われても夢中で君を追いかけているよ」

いつでも太陽の光を目一杯受けれるように、「花」は一日中太陽を追いかけています。光を求める「花」になど関係ありません。風に逆らい、花弁や葉を懸命に太陽のほうへ伸ばそうとします。根を地面に縛られたまま、それでも毎日毎日太陽を追いかけ続ける花は、まるで永遠の片想いをしているかのようです。

「いくつもの種をあの丘へ浮かべて綺麗な花を敷き詰めてあげる」

良く晴れた日の暖かい日差しの中に沢山のが飛んでいきます。綿毛は風を受けてきらきら光っています。一輪の花の永遠の片想いは、例え根を縛られていたとしても、その想いを空へ飛ばして、丘一面に想いを咲かせることさえ出来るのです。「君」へ募る「僕」の想いも同じ。想いは何倍もの大きさになり、「君」のために何かしたい、「君」を喜ばせたい、との献身さへと変わっていきます。

「早く見つけて見つけてここにいるから起こされるのを待ってるのに」

「花」はいつでも待っています、太陽が気付いてくれなければ、花を咲かせることも種をつけることもかなわないのだから。太陽の光が自分のもとへ届けられるのを、花はその生命を賭けて待ち続けています。「思い通りにいかない」現実に戸惑い「君」を夢見るしかない「僕」も、引きこもった眠りの中で実は「君」が起こしに来てくれるのを待っているのです。

「叶わぬ想いならせめて枯れたい」

永遠に叶わない想いであろうと光の下で花は自ら枯れようとはしません。けれど「僕」は、この想いが叶わないのならば「せめて枯れたい」と願います。たとえ太陽が目の前にあってもそれが手の届かないものならば、永遠の片想いの中で咲き続けるより身を枯らせてしまったほうがいい、と。それでも「僕」は「君」への想いを断ち切ることができないのです。野の花だって太陽を毎日毎日追いかけてしまうことをやめることは出来ません。「僕」だって枯れることなど出来ない、だからこそ、「せめて枯れてしまえればいいのに」と感じているのではないでしょうか。


ディカプリオとhyde

プロモーション映像がとても綺麗です。黒目黒髪、服装も上下共に黒という出で立ちのhydeが、身を捩じらせ、頭を振り、眼や口元に悩ましい表情を浮かべながら歌う姿の何と美しいことか。開け放たれた鳥かごには既に鳥はおらず、赤く色の滲んだリンゴが積み上げられているきり・・・・。

そして、ラストに近づいた所でhyde一人が地に膝をつき、顔を天に向け、叫ぶシーンがあります。ああ、どこかで見たことがある、と思いました。それは映画「ロミオ×ジュリエット」の中のワンシーン、ロミオを演じるディカプリオがジュリエットの訃報を聞き、両手を広げ、まるで天にいる神を呪うがごとく『ジュリエーット!!』と叫ぶ、あのシーンを思い出します。プロモの中のhydeにはそのディカプリオの姿を重ねてしまいました。

二人の姿は欠けてしまったガラス細工のように痛々しくも美しい。心を通って屈折した光が彼らの姿を透かして見えるよう。それは悲しみであり、苦しみであり、怒りであるかもしれません、けれど、どんなに屈折しようとも、心の奥底を照らすはいつでも愛情なのです。



2005/09/29
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